もしも瑛九が生きていたら、綿貫さんの編集した瑛九画集は出版されなかったに違いない。
この画集の最大の問題は用紙の選択にあった。
いくらかでも美術に関わった者は、テラテラと光沢を放つ印刷物は絵画の質感とあまりにも隔たっていると感じる。
そこで選択される用紙はマット紙である。
マット紙は一つの欠点がある。
印刷インクの発色がよくない。
印刷インクは顔料をつなぎ合わせる媒体に亜麻仁油やそれに似た合成樹脂が使われる。
これらのビヒクルと呼ばれる媒体はその屈折率が顔料の屈折率に近く、インク層は透明になる。
光はその表面で跳ね返ってくるより、インク層を通り抜けて紙の表面に当たりそこから跳ね返ってくる方が多くなる。
顔料の表面で跳ね返ってくる光線は顔料の鮮やかさを伴っている。
これを上色という。
これに対し、インク層を通過して紙の表面から跳ね返ってくる色を底色という。
印刷紙が光を反射し濁りのない白色の場合は底色が上色に近く顔料の鮮やかさが保たれる。
しかしマット紙の場合は、底色が彩度を落としてしまう。
絵画の複製印刷をする時、この彩度の落ち込みが気になる。
その時印刷屋も依頼主も色彩濃度を上げて誤魔化そうとする。
だいたいこの段階で両者は満足する。
そして、原画の色彩の上品さは失われる。
多くの画家の画集ならそれでもいい。
しかし、瑛九に於いては致命傷となる。
それは瑛九の絵は色彩のバランスがその骨格になっているからだ。
色彩の再現が出来ないと絵の骨格そのものが崩壊する。
ダ・ヴィンチのモナリザは絵の骨格が形にある。
発色が多少異なっても複製として何ら問題を起こすことはない。
色彩の濃度を下げるには二つの方法がある。
一つは白色絵の具を混ぜる。
もう一つはリンシードオイルや水で薄める方法だ。
瑛九は後者の手法で制作した作品が多い。
いわゆるお汁で描く手法だ。
この方法は彩度が落ちない。
この彩度の再現が印刷では限りなく難しい。
現在の印刷技術では、瑛九の絵の再現は難しい。
南新宿にインクジェットで大画面の印刷が出来る工房があると聞いていって見た。
ここで「田園」の複製を試みた。
結果は無惨だった。
インクジェットではお汁で描いた絵の再現は出来なかった。
瑛九の絵の複製で唯一考えられるのは、水彩をリトグラフで丹念に再現することだ。
私はこれをしなかった。
それは、私が瑛九との関わりが深い故、私が制作すると複製ではなく偽物に化けることを恐れたためだ。
さて、瑛九が生きていたら出版に同意しなかったであろうと想定する原因の出来事を語ろう。
これは瑛九の作品に対する姿勢である。
瑛九が資料を収めた箱の中からとりだしたのは、みずえの表紙のゲラ刷りだった。
確かみずえだったと思う。(芸術新潮の可能性もある)
この資料がまだ都さんの手元にあるか、宮崎美術館に保管されているか私は知らないが、瑛九を研究する上で貴重な物だと思う。
万一瑛九関係者がこのブログをご覧になったら是非この資料を見付けていただきたい。
都さんはこの資料のことをご存じないと思う。
ゲラ刷りは彩色フォトデッサンだった。
瑛九は言った。
「色の再現がだめだからこの企画を断りました」
名を売り金を稼ぐにはまたとないチャンスのはず。
瑛九はこの二つの誘惑に負けなかった。
岡本太郎がパリでシュールレアリズム風の作品を制作していた当時、日本の新しさを求める芸術界はこの岡本太郎と瑛九が話題を分け合っていた。
芸術界の新進気鋭の二つの星だった。
気がつけば一方は有名人のトップに立ち、他方は無名に近くなっていた。
岡本太郎は講演をし、ラジオでしゃべり、テレビに出まくった。
私も彼の講演を聴いた。
瑛九は一切このような行為をしなかった。
ひたすら制作に打ち込んでいた瑛九は、ヴィヴェカナンダ師に言わせれば、あまりにも神に近かった。
色彩に厳密に取り組んでいた瑛九にとって、バランスの崩れた再現は許されない。
この画集を作った綿貫さんを責めるものではない。
この画集の出版が瑛九の名をかなり広めた。
この功績は大きい。
それにポジの提供代でなにがしかの金も貰った。
掲載の図版は8×10のポジフィルムからプリントしたものを更にスキャニングした。
原画と全く違ってくる。
南視
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