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ご来店有り難うございました。
良いお年を
2010.12.15.
お休みなさい
瑛九のフォトデッサン集「眠りの理由」が格納されていた紙袋についてニコンに問い合わせたところ、ニコンの資料室にもないし現在のロゴマークが制定される以前のことで、無かったことにして処理して欲しいと言うことでした。
この「眠りの理由」は、1960年12月瑛九のアトリエの中に唯一残っていた一点で、購入したその時点でこの袋に格納されたのか、出版された当時(1936年) 格納された物か、私も記憶にありません。
購入した当時からこれは四つ切りの印画紙の袋で、瑛九はニコンブランドの印画紙を使用していたと信じていました。
しかるに、ニコンの資料室の担当者はニコンが印画紙を販売した記録はないと返答してきました。
瑛九が制作に必要としたのは、印画紙とその現像液、定着液で光学機器は必要としませんでした。
ではこの袋はニコンの何が入っていたか?
すべて不明です。とりあえずその画像を掲載します。
池田満寿夫からの手紙は一部長野の池田満寿夫美術館へ寄贈したが、がらくた整理をしていたらまた少し見つかったのでこ
のブログで公開することにした。
今日、フジテレビでライトアップの特集番組を放映していた。
静止する対象物に照明を当て、対象物を暗闇に浮き上がらせて観賞する手法をライトアップと言うなら、日本で最初のライトアップは1975年、新宿紀伊国屋画廊に於いて開かれた「田園」が最初である。この事は朝日ジャーナル1975年9月5日号の記事(千変万化する音と光の「田園」展) を参照されたい。
このブログはまだ来訪者がいないと思われる。
一つの痕跡としてここに記す。
私はライトアップなる造語に関知しない
もしも瑛九が生きていたら、綿貫さんの編集した瑛九画集は出版されなかったに違いない。
この画集の最大の問題は用紙の選択にあった。
いくらかでも美術に関わった者は、テラテラと光沢を放つ印刷物は絵画の質感とあまりにも隔たっていると感じる。
そこで選択される用紙はマット紙である。
マット紙は一つの欠点がある。
印刷インクの発色がよくない。
印刷インクは顔料をつなぎ合わせる媒体に亜麻仁油やそれに似た合成樹脂が使われる。
これらのビヒクルと呼ばれる媒体はその屈折率が顔料の屈折率に近く、インク層は透明になる。
光はその表面で跳ね返ってくるより、インク層を通り抜けて紙の表面に当たりそこから跳ね返ってくる方が多くなる。
顔料の表面で跳ね返ってくる光線は顔料の鮮やかさを伴っている。
これを上色という。
これに対し、インク層を通過して紙の表面から跳ね返ってくる色を底色という。
印刷紙が光を反射し濁りのない白色の場合は底色が上色に近く顔料の鮮やかさが保たれる。
しかしマット紙の場合は、底色が彩度を落としてしまう。
絵画の複製印刷をする時、この彩度の落ち込みが気になる。
その時印刷屋も依頼主も色彩濃度を上げて誤魔化そうとする。
だいたいこの段階で両者は満足する。
そして、原画の色彩の上品さは失われる。
多くの画家の画集ならそれでもいい。
しかし、瑛九に於いては致命傷となる。
それは瑛九の絵は色彩のバランスがその骨格になっているからだ。
色彩の再現が出来ないと絵の骨格そのものが崩壊する。
ダ・ヴィンチのモナリザは絵の骨格が形にある。
発色が多少異なっても複製として何ら問題を起こすことはない。
色彩の濃度を下げるには二つの方法がある。
一つは白色絵の具を混ぜる。
もう一つはリンシードオイルや水で薄める方法だ。
瑛九は後者の手法で制作した作品が多い。
いわゆるお汁で描く手法だ。
この方法は彩度が落ちない。
この彩度の再現が印刷では限りなく難しい。
現在の印刷技術では、瑛九の絵の再現は難しい。
南新宿にインクジェットで大画面の印刷が出来る工房があると聞いていって見た。
ここで「田園」の複製を試みた。
結果は無惨だった。
インクジェットではお汁で描いた絵の再現は出来なかった。
瑛九の絵の複製で唯一考えられるのは、水彩をリトグラフで丹念に再現することだ。
私はこれをしなかった。
それは、私が瑛九との関わりが深い故、私が制作すると複製ではなく偽物に化けることを恐れたためだ。
さて、瑛九が生きていたら出版に同意しなかったであろうと想定する原因の出来事を語ろう。
これは瑛九の作品に対する姿勢である。
瑛九が資料を収めた箱の中からとりだしたのは、みずえの表紙のゲラ刷りだった。
確かみずえだったと思う。(芸術新潮の可能性もある)
この資料がまだ都さんの手元にあるか、宮崎美術館に保管されているか私は知らないが、瑛九を研究する上で貴重な物だと思う。
万一瑛九関係者がこのブログをご覧になったら是非この資料を見付けていただきたい。
都さんはこの資料のことをご存じないと思う。
ゲラ刷りは彩色フォトデッサンだった。
瑛九は言った。
「色の再現がだめだからこの企画を断りました」
名を売り金を稼ぐにはまたとないチャンスのはず。
瑛九はこの二つの誘惑に負けなかった。
岡本太郎がパリでシュールレアリズム風の作品を制作していた当時、日本の新しさを求める芸術界はこの岡本太郎と瑛九が話題を分け合っていた。
芸術界の新進気鋭の二つの星だった。
気がつけば一方は有名人のトップに立ち、他方は無名に近くなっていた。
岡本太郎は講演をし、ラジオでしゃべり、テレビに出まくった。
私も彼の講演を聴いた。
瑛九は一切このような行為をしなかった。
ひたすら制作に打ち込んでいた瑛九は、ヴィヴェカナンダ師に言わせれば、あまりにも神に近かった。
色彩に厳密に取り組んでいた瑛九にとって、バランスの崩れた再現は許されない。
この画集を作った綿貫さんを責めるものではない。
この画集の出版が瑛九の名をかなり広めた。
この功績は大きい。
それにポジの提供代でなにがしかの金も貰った。
掲載の図版は8×10のポジフィルムからプリントしたものを更にスキャニングした。
原画と全く違ってくる。
南視
1958年秋
瑛九の手は自由な動きにゆだねられた。
「青の中の丸」を描く時は丸からはみ出さない気遣いが必要だった。
瑛九はそれまでの自身もわからなかったに違いない、何かの呪縛から解き放たれた。
何物にもとらわれない自由なストローク、吹き出す情熱、自信そして誰もなしえなかった新しい絵画の世界。
瑛九は確信に満ちた。
1936年頃、瑛九が思索の果てに築きあげた絵画理論を、ようやく実現する力を得た。
後は画材だ。
絵の具とキャンバス。
「青の中の丸」50号のキャンバスは木枠から自製した。
今やそんな時間はない。
瑛九は私に速達便を出した。
掲載の図版がその手紙である。
南視
河口から国道の下をくぐると海を知らない渓流の装いだ。
左岸は市街地になっているが、右岸は急斜面の木の生い茂る山が迫っている。
この川にも鮎がさかのぼる。
河口から四五百メートルは魚道も造られているが、それより上流はコンクリートで作られた段差が魚の遡上を遮断している。
河川管理に関する知識を持ち合わせていないので、なぜ段差を付けるのか理解出来ない。
水量調節の堰なら頷けるが、垂直の流れを作る理由がわからない。
確かに段差以外の流域は流れが緩やかになる。
これによって土砂の流失を防ごうとしているのか。
せめて魚道を造って魚類の遡上を促して欲しい。
しかし、この川はもっと重大な問題を抱えている。
それは水質だ。
新崎川の上流域の住宅から生活排水が垂れ流しになっている。
幕山公園の近くにます釣り場があり、そこからますやヤマメが下流まで流れてくる。
そのため渓流釣りの愛好家はそれなりの釣果をあげているが、家庭の雑排水にまみれた魚を食べる気になれない。
流れは栄養があり、川中のススキは繁茂する。
偶然見つかった古いバックアップデータをドライブに入れてみた。
古いものの懐かしさから、そのデータを少しいじってみよう。
10年前開いていたホームページの画像データなどがそれだ。
添付した画像は瑛九の油彩「田園」のサインの描かれた部分だ。
当時のホームページに書き込んだ瑛九についての記述を今三度書き残そう。
今三度という言葉はない。
同じ言葉を瑛九から聞いた人が、それは前にも聞きました、といくらか批判めかしていった時
「繰り返し言わないと人は僕の言葉を理解しないからだ」
瑛九はこう言い返したそうだ。
私の文章を見る人はほとんどいない。
このブログに迷い込んだ人も多くは料理のレシピでも見ようとした人が多いだろう。
そこで色々書きまくることにした。
いつか、瑛九に興味を持ってくれる人に出会えるかもしれない。
晩年の瑛九は孤立していた。
傍から見れば孤高であった。
本人から見れば雑なる人付き合いを断ってすべての情熱を制作に集中していた。
発表の自由を求めて同志を集めたデモクラート集団もいち早く解散した。
自分を評論出来る思想家はいない。
弟子はいない。
自分が今全神経を注いで新しい表現に取り組んでいる時、弟子を持つ心境にはなり得ない。
絵の具と筆とキャンバスと時間があればいい。
後必要なものは画材と生活に必要な金をもたらせてくれるコレクターだ。
瑛九を支えるのはどこかで彼の作品に感動してくれる鑑賞者だ。
表現者と鑑賞者との目に見えない精神の共鳴が彼を支えていた。
その意味に於いて孤独ではなかった。
当時、かってデモクラートのメンバーであった磯辺行久がいた。
彼は聡明で絵を見る目も確かだった。
いみじくも彼は言った。
「あなたは瑛九に利用されている」
これは瑛九の50号の油彩を購入した私への言葉だ。
当を得ている。
私は思った。
瑛九に利用されるなんてなんと光栄なことだろう。
南視
5月21日
日が長くなった。
午後4時半に湯河原駅に着いた時、まぶしい日差しの中、鍛冶屋行きバスの後ろ姿があった。
今日は薬で瞳孔を開いている。
目を細めても、辺り一面跳ね返ってくる明るさが耐え難い程の苦痛をもたらす。
次のバスまで25分ある。
ここで時間をつぶす方法は図書館だ。
今日は何をしようか。
文字は見えない。
瞳孔を開いていてなおさら見づらい。
かって興味深く読んだ本の回想をすることにした。
文庫本の推理小説を思い出した。
タイトルはコガネ虫殺人事件だったかな。
この小説に一番感銘を受けたのは、ストーリーではなくセザンヌの水彩に関する美術論だった。
一体あの小説を書いたのは誰だったろう。
早速係員に尋ねることにした。
後でわかったがコガネ虫ではなくカブトムシだった。
これでは図書館員を混乱させるだけだった。
古代エジプトの造形物で、コガネ虫でもなくカブトムシでもない甲虫らしい。
作者はバン・ダイン
知りたかったのはこの名前だった。
なぜなら感銘を受けた美術評論はこの推理小説の中で展開されるセザンヌ論だけのように思われてきたからだ。
帰りのバスの中でバン・ダイクを思い出し次いでバン・ダインを思い出した。
情報は帰ってからネットで調べた。
もう一度バン・ダインを読み直してみよう。
カブトムシ殺人事件
南視
135号線を渡った。
信号のない横断歩道で、交通量の多いことから渡るタイミングを計るのに時間がかかった。
渡り終えると、有料の真鶴道路の手前に海岸へ降りる狭い階段がある。
降りると一面水によって丸く削られた石が隙間無く堆積している。
大きいものはラグビーボール位あり、石の上をバランスをとりながら一歩一歩歩むことになる。
階段から50メートル程右に進むと河口がある。
河口と言っても最後まで渓流の流れのまま海に注いでいる。
いくらか期待した運河のように緩やかな川のたたずまいは無かった。
水量も上流とさして変わらない。
河口に立って、埋め立て地の位置が明瞭になった。
つまり、新崎川の河口から千歳川の河口までが埋め立てられていた。
生活と海を分け隔てている道路と埋め立て地は社会生活に大変重要なことは理解出来る。
が、今ひとつ工夫がたりなかったように思える。
水辺に立つ時、人は精神を癒される。
さて、河口から河原を伝って上流に向かう勇気はない。
いったん道路に上がって上流に向かおう。
また 南視
5月18日
朝のニュースが終わると疲れを感じて目を閉じた。
老人に明日はない。
明日は希望の下にある。
希望は変化への期待だ。
老人だけではない。
社会そのものが明日への希望を失っている。
目を閉じると少年の頃の回想に入った。
わたすみっか
きーしべみもみーえーずー
そのなーがーれ
ちゅうーやをすてーず
たいりくのよくやうーるおし
みずはまんまん
なーがれはよーよー
とーとーよーよー
7,8才の頃覚えた歌を脳裏で歌う。
この歌は揚子江の歌と思うが、川から新崎川を連想した。
新崎川の河口はどうなっているだろうか。
河口であって川口とは言わない。
海に注ぐ時、川は大きくなって河となっているからだろう。
湯河原には2本の川が海に注ぐ。
湯河原の中央を流れる川が新崎川で、熱海市との境界を流れるのが千歳川である。
熱海市との境と言うより、神奈川県と静岡県の境といった方が存在感が増す。
湯河原は真鶴半島の付け根にある福浦漁港から千歳川河口までの海岸線をもっている。
昔の海岸線を知らない。
想像するに、目一杯左右に美しい海岸線が広がっていただろう。
今は道路が海岸線沿いに延び、人の進入を拒んでいる。
そのうえ、熱海寄り半分の海岸は埋め立てられテトラポットの護岸になっている。
一部海釣り場に整備されている事が救いではある。
これまで河口を含む海岸線に降り立ったことがなかった。
135号線を渡り、有料真鶴道路をくぐらなければならない。
付近に駐車場もなさそうだし、埋め立て地にあるスーパーマーケットの屋上から眺めるだけで近づこうとは思わなかった。
陽光は色濃く茂る木々の間を抜けて窓際を照らしている。
この明るさの中で一日鬱々と過ごすのはあまりにもわびしい。
久々に外歩きを思い立った。
目指すは新崎川河口である。
つづく・・・
南視
5月7日
小田原で眼科検診を受けた。
小雨模様の湯河原駅前に降り立った時、厚い雲のせいもあって、店の明かりが輝いて見えた。
物心ついた時から、いつも決まって孤独感をかき立てる、あの夕闇が迫っていた。
バスの時刻まで30分近くある。
さて、どうやって時間をつぶそうかと考えた時、チェスをする二人を思い出した。
この天候ではさすがに彼等も釣り場にはいまいと思った。
思いめぐらす中で、困難なことを口走った責任感も脳裏に浮かんできた。
そうだ、駅前には図書館がある、そこでチェスの話が見つかれば責任の一端を果たせると思った。
図書館の玄関フロアはさほど広くない。入ると右手に受付カウンターがあり、その他の空間は書架で埋め尽くされている。
文学書の並ぶ書棚を見つければと思い探したが、書籍の分類は予想だに多く、容易でないことがわかった。
入り口のカウンターの中にいる館員に尋ねることにした。
いかにも館員といった雰囲気の女性と、書架の間をすり抜けるには不都合と感じられる太めの青年がいた。
「ステファンツバイクのチェスの話はあるでしょうか」
女性館員が、
「チェスの話ですね」と受け応えてくれた。
「そうです」
すると、男性館員が
「ステファンツバイクで検索した方が早いよ」
と女性館員に助言した。
検索ディスプレーを覗きながら
「マゼランとマリーアントワネットしかありません」
「では、ツバイク全集はありませんか。その中にチェスの話が収められているかもしれません」
「全集は当館にはありません。ご希望なら県の図書館から取り寄せる事ができます」
と男性館員が解決法を示してくれた。
一瞬思いめぐらした。
私が借りることが目的ではない。
目的はあの二人に情報を伝えることだ。
「いえそれには及びません」
と答え館を出てバス停に向かった。
回想
ツバイクのチェスの話を読んだのは半世紀も前だ。
1961年、当時渋谷本町に住むMを訪ねた時、彼がこの本をくれた。
それまでツバイクの名前も知らなかった。
彼は碁が好きで、訪ねるとまず折りたたみ碁盤を出すのがならいだった。
彼は私に4子置いても勝てなかった。
私が強いのではない。
彼があまりにも弱かった。
「近くに初段の人がいるけど、その人より君はずっと下手に思える。なのに、なぜ負けてしまうんだろう」
と悔しがる。
「君が絵を描いている間、僕は碁を打っているから勝って当然さ」
お互い碁は好きだったが1局打てばそれで勝負は終わっていた。
帰りの列車の中でチェスの話を読んだ。
チェスを全く知らない主人公がスパイ容疑で幽閉される。
供述を引き出すため尋問室以外一切人との接触を絶たれ、何の音も聞こえてこない何もない部屋で時間の経過さえわからない。
その状況の中で、ある日尋問室の壁に掛かっていたコートから一冊の本を盗み出す。
それが初めて見るチェスの棋譜だった。
やがて彼の全神経はチェスの駒の動きに占められ、その思考の世界が現実と入れ替わっていった。
現実と形而上の世界が入れ替わるのは、現実と幻覚が混沌としていく分裂症に似ている。
やがて釈放され、大西洋横断の客船上で物語は結末を迎える。
話の設定もとても興味深いが、何よりその文章に惹かれた。
修飾語が濁流となって覆い被さってくる感じを受けた。
絶え間ない激流のような文章にすっかり見せられてしまった。
しかし、ツバイクの本は私の手元に一冊もない。
私は本に対する愛情がないからに違いない。
人に勧めてあげてしまうのと、度重なる引っ越しで本も廃棄してしまう。
瑛九に関する本が少しあるだけだ。
ツバイクもヘンリー・ミラーも遠くなった。
50年前の青年を熱くした世界は遺跡のかけらとなっていくのか。
南視
海に向かうと左半身に涼しさを感じる。
夕凪の気配はない。
うねりはないが海面は波立っている。
釣り場は海にせり出している幅五十メートルほどのコンクリート構造である。
鉄柵にもたれて下を見ると、干潮らしく3メートル程下に海面が見える。
揺らめく海底が手に取るように見える。
水深は2メートル程だろうか。
釣れそうな気配が希薄な中で、それでも糸を投げた。
左に目をやると10メートル程先に60才前後とおぼしき人物が竿をもっている。
その動きからアオリイカをねらっていることがわかる。
アオリイカ釣りはマニアックで、初心者が簡単に取り組める釣りではない。
その姿を見るだけで私のような初心者は彼等に尊敬の念を持つ。
生きた小アジを餌にすると聞いただけで、職業にしていなくても漁師の肩書きがふさわしく思える。
こちらは小アジが釣れたら大漁節でも歌い出しそうな程嬉しくなる。
アオリイカ釣り漁師をマグロに例えるならならこちらは鰯程の差を感じる。
今日はどうも釣りに集中出来ない。
数度餌を取り替えている内に浮子が見づらくなる程夜に近づいた。
太陽は伊豆山の向こうに隠れた。
昼間のざわめきは薄れ行き、夜に向かう不安げな静けさが忍び寄ってきた。
晩酌の刺身をあきらめ、あっさりと納竿して階段を上がると、例の二人はまだチェスをしていた。
いつの間にか釣り場にいる人数は5人になっていた。
チェスの二人と私たち夫婦それにアオリイカの漁師だ。
一体いつから何時間チェスをしているのだろう。
いつまで指し続けるのだろう。
仙人と木こりが碁に夢中になっている内に、気がついたら、立てかけて置いた斧の柄が朽ち果てていたという中国の古事を思い出した。
二人の存在がなぞめいてきた。
彼等は仙人で自分の目だけに見えるのだろうか。
いや、家内も見ている。
形而上の存在ではなさそうだ。
家に帰り着くまで謎はますます深まっていった。
続く・・・南視
5月6日
連休も終わり町の雰囲気も人々の心にも喧噪の後の静けさが戻ってきたように感じられる。
駐車場も釣り場もすいているに違いない。
今日こそ釣りをしようと計画を立てた。
仕掛けはシンプルに、ねらいはメジナである。
おもりはよりもどしだけにし、2号のハリスに一つの針。
塩漬け冷凍保存しているオキアミを餌にし、今日はこませもやめよう。
こませが面倒なこともあるが、大量のこませが海を汚しているのも事実だ。
大漁が望みではない。
静かな魚と対峙する時間が、悟りを開くための座禅に似て、精神の集中と無我の境地へ誘ってくれる。
太陽が伊豆山にかかる頃、波間に踊る日の光も黄色くなり、やがて黄金色に変化する。
子供の頃から水辺の夕まずめが好きだった。
風がやみ、夕闇を迎えようとするとき浮子の気配が増大する。全神経が魚との対峙に集中し陶酔に似た時間を迎える。
今日は5時から釣りを始めようと夕餉の買い物をする家内を誘って出かけた。
あわよくば食事の前にメジナの刺身で晩酌をしようともくろんでいた。
釣り場の手前にたむろす数匹の野良猫に目をやりながら釣り場の上の道路に降りると、なんとあの二人が前と同じ場所で、同じポーズでチェス盤を囲んでいるではないか。
意外だった。今日は平日なのに。
釣り竿を杖にして立ち止まり
「今日は!」
と声をかけた。
にこやかに振り向いた青年は
「あの本探したけど売っていませんでした。次はもっと大きい本屋で探してみようと思います。」
「あの本は50年も前に読んだもので再販されていないかもしれませんね。ツバイク全集があればその中にあるかもしれませんが」
私も解決の道が見あたらず力のない返事をした。
私は勝負事の野次馬になるのが好きで、色々ヤジを飛ばしてひんしゅくを買うのが常であった。
しかし、今、目の前で展開している勝負は駒が小さくて目の悪い私には盤面を読むことが出来ない。従ってヤジを飛ばすことなく釣り場に向かった。
続く・・・南視
5月5日、再び釣り場へ様子見に行った。
そこには先日と同じようにチェスをする二人の姿があった。
同じ場所で、同じスタイルで、前回と変わらない雰囲気でチェスをしている。
連休中毎日ここでチェスをしているのだろうか。
何か不思議に思えてきた。
学生だろうか?
とりあえず水際へ向い、釣り人の様子を見たが釣れていなさそうだ。
水は澄んでいた。
3メーター程の海底に一台の自転車が沈んでいる。
その上を白い腹をきらりと輝かせて小魚が泳いでいく。
ひょっとしてウルメイワシだろうか?
昨秋、ウルメイワシが釣れないかとサビキ仕掛けで挑戦したが、全くあたりはなかった。
水が澄みその上快晴では魚もどこかへピクニックに違いない。
海を背にして階段を上がると、相変わらず彼等はチェスをしている。
「コンピューターの答えが出た。こうだ」と言って次の手を指したのはいつも笑顔の青年で、胸を張って姿勢がいい。
対する相手は背を屈め、盤面から目を離さない。
彼は見るからに初心者だ。
「こんにちは、今日もチェスですか」
彼は笑顔で振り返って会釈した。
「昔東中野にチェスの出来る喫茶店があって、一二度行ったことがあるんですよ。チェスが好きならステファンツバイクのチェスの話を読んで下さい。」
すると、彼は早速メモをとり
「有り難うございます。早速読んでみます」
と嬉しそうに応えた。
その日はそのまま帰宅した。
あんなことを言ってしまったが、あの本は今見つかるだろうか。
いくらかの無責任は自分の性格とはいえ、一抹の罪悪感を酒で紛らわして寝た。
続く・・・南視
湯河原の海岸には海釣り場がある。
消波ブロックが沖合に並び、それが邪魔しているのか、鰺や鰯の姿が見えない。
釣れるのはもっぱらメジナ、あまり歓迎出来ないがベラやゴンズイ、カゴカキ鯛やカサゴの小さいのが混じる。
暖かくなったので、刺身にしてうまいメジナが釣れているか様子を見に行った。
五月二日、連休中とあって家族連れでにぎわっていた。
釣り場は歩道から水際まで緩やかな階段状に整備されている。
芝生のグランドの横を抜け、釣り場の上の歩道に着くと陽光を照り返す海原が、潮風と共に迫っている。
その場にいるだけで気持ちは華やいでくる。
残念ながらメジナを釣り上げた人は見あたらなかった。
この釣り場は砂地でなく、魚礁用のケーソンが沈めてあることもあって、浮子釣りでないと根掛かりしてしまう。
それを知らず砂浜用の投げ釣り仕掛けの人は苦労していた。
一通り見渡してから、その日は帰ろうと階段を上ってくると、最上段に向かい合って座っている二人の青年が目にとまった。
どうやら二人はチェスをしているようだ。
盤は一辺が20センチにも満たない大きさで、並んでいる駒はつまむのも難しそうなほど小さい。
「チェスをしてるんですか、珍しいですね」
私の呼びかけに、
「そう、あまりする人がいなくて」
彼はにっこり笑った。
その日はそのままその場を離れた。
続きは又・・・南視